technology 【特集】準好気性埋め立て構造 日本の廃棄物埋め立て技術が世界に広がるまで

高度成長期の日本で生まれた廃棄物埋め立て技術が、半世紀を経て世界で採用が進んでいます。なぜ日本で生まれた環境技術が、世界で普及が進んでいるのか、この技術の開発と普及に一貫して取り組まれてきた、松藤 康司氏(福岡大学 名誉教授)に、これまでの技術普及活動の内容と、技術によって地域にどのような変化があったかを伺った。

世界に広がる”Fukuoka Method”

日本全国のごみ埋立地 約200箇所 全体85%が、準好気性埋め立て構造という技術を採用していることをご存知だろうか。この技術は、1966年頃から花嶋 福岡大学名誉教授の元で廃棄物の埋め立てのために研究され、1973年から3年間、福岡大学と福岡市の共同プロジェクトによって実証、1979年には当時の厚生省(現在の環境省)により最終処分地の標準構造として認定され、高度成長期で環境問題に直面していた日本で広く普及をしている。

その後、この技術は海外においても注目され、国連ハビタットJICAを通じて、ミャンマー、ベトナム、エチオピア、ケニアなど世界17か国に採用される技術となっている。

準好気性埋め立て構造は、英語では”Semi-aerobic landfill system”と呼ばれるが、福岡から生まれた技術として、国連の文書や国際会議等においてもにおいても”Fukoka Method”(福岡方式)と記され関係者の中でも、この呼称が一般的に使われている。

この技術の開発と普及に半世紀に渡り中心人物として活躍されているのが、福岡大学 名誉教授 松藤 康司氏(写真1)である。

福岡大学 名誉教授 松藤 康司氏
写真1  松藤先生 近影

準好気性埋め立て構造

準好気性埋め立て構造は、廃棄物の埋め立て技術の一つで、十分な酸素が供給されず嫌気的な環境ができることを防ぐため、埋立地の底部に排水と空気取り組みのためにパイプを配置する構造である。取り込まれた酸素から、微生物の活動を活発化し、微生物から発生する熱でさらに空気の対流が増すことを利用している。(図1)

近年、微生物の力を借りる仕組みは、多くの分野で普及しているが、当時の埋め立て技術は土木技術を中心とした仕組みであり、科学的、生物学的なアプローチは大変画期的であった。

図1  概念図 (出典:福岡市環境局)

高度成長期の日本で培われた技術

“明日をも知れない”分野への挑戦

松藤氏が埋め立て技術に携わるきっかけは、いくつもの縁から訪れる。
もともと薬学部を専攻し、創薬のキャリアをめざしていたが、実習過程に進んだ際、同僚が都心の病院を選ぶ中、漠然と長崎県 五島の病院を選んだ。その病院で、カネミ油症の被害にあわれた患者を目の当たりにし、病気を直す以前に、社会や生活の環境課題の存在に深く心を動かされた。
この体験を当時の指導教諭に相談したところ、前述の花嶋研究室において、科学的な調査分析ができる人材を必要だという紹介が入った。

1960年代の日本は、高度成長期の中間期にあたり、ごみの課題についても関心が高まりだした時期だ。当時のゴミは、生ゴミを含む水分の多いゴミが多く、オープンダンピングやオープンバーニングと言われる、廃棄場への投棄や焼却などで処理をしていたため、周囲の生活や農業などへの影響なども繰り返し発生していた。しかしながら、その影響を化学的に検証をしている例が少なく、花嶋研究室では、化学的な分析や評価ができる人材を必要としていた。

当時、東京から福岡に移ったばかりの花嶋先生は、当時のごみ問題の重要さを学生の松藤氏に熱く語り参加を進めた。そこで、松藤氏は「自分たちの将来はどうなるのか?」と花嶋先生に尋ねたところ、回答は、「明日をも知れないがやらなければならない」「明日がわからん!」というものだった。
松藤氏は、その言葉にむしろ大きな可能性を感じ、畑違いの工学部の門をたたきプロジェクトが進行していった。

ごみ集積現場に蓄積されたノウハウ

化学の知見を期待されての参加ではあったが、現場の様相は大きく変わった。
白衣から作業着、ビーカーからスコップ、ミリグラムの薬の話からトンのゴミの話、状況や課題を知るために機材を持って、夏も冬も福岡市 八田の埋め立て施設に学生と共にバスを乗り継ぎ通い続けた。
現地では、水質や土質の汚染調査を行うのだが、天候や場所によって、値は大きく変わり、状態を把握することは難航した。当時の現場作業者は、学者がゴミ山で何をしているのかと理解もされず、凄みをきかされては、協力を受けられない日々が続いた。

そんなある時、現場の作業者から、”兄ちゃん、ようやっとるね”と、身の上話や、現場のノウハウなどを教えてもらえるようになった。ひたむきに通い詰め、ゴミにまみれて、同じように汗して活動する松藤さんや学生に、好意を持つ方が増え、現場の情報や課題がどんどん入るようになってきた。

この時に現場で得た経験や知識は、海外での活動でも掛け替えのないものとなった。ヒト、モノ、カネのない開発途上国の現場でこそ、その場で活用できる知恵こそが信頼を作る財産となっている。”困ったら、図書館に行かず、現地に行って課題を見つけてこい”を、松藤氏は語る。
やがて信頼が身を結び、調査が進むに連れて、データが増え、科学のメスが入っていった。

写真2  当時の作業風景(下部右側が松藤氏)

領域を越えた旺盛な知見活用、官学連携の挑戦

所属研究室は、物理、化学をバックグランドにした人材を揃え、多面的な仮説や検証を行える環境であった。しかしながら、空気を送り込むことによって、汚染度が下がる理由については分かってはいなかった。ある時、微生物の関与に注目した松藤氏は、隣にあった生物学の研究室に相談し、バクテリアの測定も始めた。あまりに異なったアプローチに、周囲は懐疑的な意見も多かったが、その後、東北大学土壌微生物学研究室 服部勉教授へも協力を依頼し、福岡と仙台を行き来しながら、バクテリアの関係について調査を進めて行った。現在では、総合科学ということで一般化してきているが、旺盛な探求心が学問の区分をこえ、多くの人を巻き込んで行った。

1975年から3年間 福岡市は福岡大学と共同して、実験を行う。うまくいくかは、わからない状況であったが、拡大するゴミ問題の解決策を探る上で重要な取り組みであり、福岡市もリスクをとり官学のプロジェクトが立ち上がった。実験は、人為的に空気を送ったゴミと 空気を送らないゴミについて、水質などの汚染度を測る実験であった。結果は汚染度は軽減したが、人為的に空気を送ることは、コストや運用面から現実的ではないという判断であった。

しかしながら、この実験で想定外の発見があった。人為的に空気を送らないゴミ山で、汚染が有意に改善したタイミングが確認された。諸情報を総合すると、ゴミ山の底部に設置した排水溝が空になった際に、空気がゴミ山に入り、微生物の活動で熱をもち、空気が対流したことによるものという仮説がたち、これを実証した。

この結果は、当時の全国都市清掃会議という自治体間の組織で共有され、全国的な課題となっていたこともあり、一例の実績であったにもかかわらず、神戸市、横浜市、仙台市、北海道にて相次いで対応を決めた。長年の取り組みが、身を結んだ瞬間だった。

写真3  当時の作業風景
(写真上部が松藤氏  地下の水を埋設したパイプから採取している)

日本発の技術がなぜ海外でも受け入れられたのか

マレーシアで見た風景は、過去の日本を思わせるものだった

1979年に厚生省により最終処分地の標準構造として認定され全国に手法が広がり、松藤氏はこれまでの蓄積を博士論文にまとめようとしていたところ、1988年にJICAよりマレーシアの埋立地整備の相談が持ちかけられた。1960年代から70年代にかけてマレーシアの総合開発計画が策定され、その後の対応の一つとしてのゴミ埋立課題に、福岡方式と松藤氏に白羽の矢が立った。

家族を伴って移住したマレーシアの埋立地の現場は、1年間のうち300日はどこかで炎が上がっているオープンバーニングという状態だった。(写真4)来訪して間も無く、マレーシアの担当者から”この火事を消して欲しい”という相談があった。しかし、松藤氏は不思議と動揺もせず、この対応にあたった。理由は、この光景が20年前の福岡の現場とそっくりだったからだ。

火事の対処には、福岡で現場の方から教わった知識が大いに役立った。松藤氏の指導の元、一つ一つ対応したところ、半年後には火事はなくなり、マレーシアでの最初の大きな成果となった。現地に十分な資金や機材もない中、日本でのノウハウが結果をだし、マレーシアの現地作業者も松藤氏の作業や指示を熱心に聞き、実践するようになった。

写真4  マレーシアの埋立地の状況

福岡方式の導入

信頼が生まれた中で、福岡方式の導入が進んでいく。しかしながら、日本と同じ物資もなく、地盤の状態や様々だ。現地で調達できる材料や地盤にかかわらず施工できる軽い材料を選ぶなど、試行錯誤が行われた。地中の配管は竹やタイヤなどを利用し、持続的に技術を利用できる工夫を行った。

火事がなくなった場所に、福岡方式を導入し、今度は周辺の井戸の水がきれいになっていく。地中の汚水の排出や微生物によるごみの分解で、埋立地の環境は改善して行った。(写真5)松藤氏の2年間の取り組みは、JICAのサクセスストーリーと言われるほどの成功を収めた。

その後、松藤氏は現場を離れたあとも、定期的にマレーシアを訪れた。当初、ゴミ拾いで生計を立てていた人(ウェイストピッカー)の中には、廃品回収業で事業をおこし、今では土地を購入し従業員を雇用して、King of Waste(ごみの王様)と言われ成功した人物もいるという。

その後も多くの国に要請を受け、松藤氏の活動は広まっていった。いつも現地に率先して行き、汚水に手を突っ込み、匂いを嗅ぎ、現場の人と共に活動する姿はどの国でも驚かれ、同時に”こんなプロフェッサーは、初めてだ”と尊敬を受けた

写真5  竹やドラム缶を使った施工の様子
写真5  マレーシアの埋立地の状況

ごみ処理対応がもたらす社会全体へのインパクト

ごみ処理対応は、ごみ課題を解決するだけでなく、ウェイストピッカーの生活に大きな影響を与えていった。ひとつは公衆衛生である。ゴミはウェイストピッカーにとっての生活の糧でもあり、埋立地は生活の場でもある。適切に処理されたゴミは、周囲の生活水や大気の汚染を軽減した。あわせて、危険だった区画を整理することで、安全性を高めることにもつながっている。

写真6  ケニアにて プロジェクト前
写真7 ケニアにて プロジェクト後

松藤氏によると、現地で生活、働いている人の変化も大きいという。ウェイストピッカーの中には、左官や石工などの技能を持った人もいるという、施工の中で自身の技術が評価されると、手にした日当で工具を買い、嬉しそうに松藤氏に見せてくれるのだそうだ。”半年後に現地に行くと、その子供が弟子入りして、一緒に仕事をしていた。” 松藤氏も 嬉しそうに話をしてくれた。

エチオピアでは、福岡方式を説明するために段ボールに絵を描いて、上手に現地の人に説明をしてくれる若者がいた。松藤氏が尋ねると、以前は大学に通っていたが家庭の事情で断念し、ウェイストピッカーになったという。彼はその後復学をし、公衆衛生の管理者として、現地で活躍をしている。そういう彼を見て、学校に行く子供も増えているという。”学校で習った内容や歌を聞かせてくれるために、子供がやってくる。将来の夢を話してくれる。ゴミ拾いを卒業し始めている。

写真8 エチオピアでの活動風景

現地と一緒に成長するWinWinの関係

最後に松藤氏は、現地と日本の団体との関係について、支援をする/うけるの関係でなく、お互いに成長するWinWinの関係として、”福岡システム”という考えを説明された。松藤氏が所属されていた福岡大学では、次代の技術者を養成するため、毎年現場に行き、実際の作業の中でゴミの処理以外にも多くの学びを得ている。最近では、他大学からも参加の希望が出ており、日本の学生の育成においても大きな役割を果たそうとしている。人材の交流は学生だけに留まらず、社会人にも広がっている。福岡市でゴミ収集の業務を行っている職員が、現地指導に参加する取り組みも行われた。直接指導をする中で、現地でそのノウハウが歓迎されると共に、ゴミ処理の社会における重要さを現地で感じる機会を得て、その後のモチベーションにも強くつながる経験をしたという。

現在、コロナ禍で現地への訪問が難しくなったが、オンラインでのやりとりをうまく活用し、遠隔での指導はつづいている。半世紀で発展した技術”Fukuoka-Method”は、”福岡システム”という人材のWinWinの育成の取り組みも加え、松藤氏の活動は今日も拡大している。

写真9  取り組みポスターを前に
大屋 誠

大屋 誠

クラウドサービス開発や新規事業のR&Dを経て、現在はヤフーにてデータ コンサルティング事業に従事。 事業開発や国内外の技術評価の経験を活かし、アシタネプロジェクトに参画。技術やサービスのキュレーションや、人材教育支援のプログラム開発に従事。東京から福岡に生活拠点を移し、週末は養鶏や農業など楽しむ。